2015年12月12日
新しいカウンセリング 虐待された子供 65
お知らせ 東日本大震災の被災者及びご家族、お知り合いに被災者のいらっしゃる方のためにボランティアによる無料の電話によるこころのカウンセリングを行っております。24時間受け付けております。ご利用ください。℡03-5888-7354です。
新しいカウンセリング、「虐待された子供」のカウンセリングを述べます。
「虐待された子供」のカウンセリングには、困難が二点あります。
それは虐待された子供を、「いまの虐待からどう守るか」という困難。
虐待された子供は、「虐待の事実を話したがらない」という困難です。
この2点が「虐待された子供」のカウンセリングを妨げます。
どちらも、いまの現実です。
よって場合によっては一時保護が、必要になります。
そうしなけば、いま虐待された子供は潰れてしまいます。
このような現実的な対応が、求められます。
ある意味でカウンセリングの枠組みと権限を、越えていく必要があります。
先ず現実を、安定化させます。
おぼれている人を、今たすけます。
今おぼれている人をたすけることができてこそ、カウンセリングも進みます。
「虐待された子供」のカウンセリングは、クッションが必要です。
そのクッション効果は大きいのです。
クッション効果は、大きな意味があります。
クッションがあるだけで、大きく改善することも多いのです。
そのクッションは、虐待された子供の砦です。
砦が、その子を守ってくれます。
物理的なものだけではなく、こころの砦にもなります。
子供にとって、逃げ込むところが必要です。
自分の魂を守る、場所が必要です。
その魂を守る場所が、秘密の花園にもなります。
そこでこそ、自己確立は行われます。
「虐待された子供」のカウンセリングでは、逃げ込むところが必要です。
それは魂を守る場所だからです。
虐待された子供のこころも、逃げ込むところが必要です。
それは大人の敬意ある対応です。
虐待された子供を、尊重する姿勢が大切です。
それが、敬意ある対応です。
カウンセリングでは、無条件の尊重は重視されます。
虐待された子供も同様です。
そのときに、子供はこころを開きます。
そこからカウンセリングは、スタートします。
その無条件の尊重は、より具体化することが大切です。
そのために、子供の長所を発見します。
虐待された子供の長所を、見付けるのです。
見いだすのです。
その長所を伸ばします。
これが新しいカウンセリングの、原則です。
短所を指摘するのは、効率の悪いものです。
労力ばかり使い、前に進みません。
長所を見付け伸ばします。
それは虐待された子供に対する、次の視点によるものです。
先ず虐待された子供の、すべてがダメというわけではないということです。
当然、優れたところもあります。
少なくとも、健康なところはあります。
そこから取りくみます。
次に大切なことは虐待された子供自身が、生活をより良いものにしたいと考えているということです。
これは大切です。
この生活をより良いものにしたいというラインに沿って、考えていきます。
そのためには、小さな一歩が大切です。
現実を変えていくには、小さな一歩が大切です。
小さな一歩こそが、先ず踏み出すべき一歩です。
その小さな一歩を、見いだします。
次に、現実に踏み出します。
小さな一歩を見いだし、踏み出します。
これがカウンセリングのプロセスです。
そのために「もう少し自分が楽に生きるために、どうなればいいか」を尋ねます。
この少しは、今すぐにでもとどく範囲です。
より具体的には、次のように問います。
「もう少し自分が楽に生きるために、何か必要なことや必要な人は?」
子供によっては、「友達が欲しい」や「お母さんに優しくしてほしい」です。
これに近づくようにします。
このささやかな望みを、大切にします。
カウンセラーと、共に望みを持つのです。
そのカウンセラーと共に持った、望みを育みます。
実現していきます。
このように先ず虐待された子供に、関心を示します。
子供は、それをうれしく思うものです。
そこから信頼関係が生まれます。
先ずプラスの関心を示すことです。
ただし注意点もあります。
何でも短絡的に、虐待と考えないことです。
とくに虐待の被害者だからと短絡的に「かわいそうかわいそう」と考えることはミスです。
そう考えることは、子供には子供なりの立つ位置があり、それを奪ってもしまいます。
「かわいそうかわいそう」が、単なる同情になってはいけません。
同情は子供なりの立つ位置を、奪ってしまいます。
誰でも同情されたくありません。
その結果、子供なりの立つ位置を奪ってしまいます。
同情されることにより、子供なりの自尊心は奪われてしまうのです。
自尊心の尊重は大切です。
最も尊重されなければいけないのは、自尊心です。
このことを軸にして、子供は配慮されなければいけません。
それに虐待された子供の生活の大筋は、他の子供と変わりません。
ただ虐待と言う深刻さが、全てを覆っています。
その覆いを取ることが、目的です。
そのために覆いに直接触れることは、逆効果になりがちです。
覆いに直接触れると、それを拒否されるのが常です。
自分が触れたくないことには、他者からも触れられたくありません。
覆いを取るには、カウンセラーの暖かさが必要です。
暖かい雰意気こそが、大切です。
覆いは、暖かい雰意気により取れます。
解けて取り除かれます。
新しいカウンセリングでは、先ず子供自身を見ます。
次に虐待された子供として、見ます。
このように子供として見ることが初めであり、基礎です。
土台です。
その土台の上に、虐待された子供として見ます。
特別な子供として見ることは、次の事になります。
普通の子供として見ることは、子供に対する尊重です。
尊重こそが、優先されるべきです。
それをモデルにより述べます。
モデルは高校1年生の男子生徒です。
この生徒は、いわゆる不登校です。
正確には逃避的不登校です。
逃避的不登校とは朝、家を出ます。
だが登校しないで、ぶらっとどこかに行ってしまいます。
登校から、逃避してしまいます。
どこかで、ぶらぶらしています。
公園や駅で、ぶらぶらして過ごすのです。
本人もこれではいけないと、思っています。
しかし、分かっていてもやめられません。
この「分かっていてもやめられない」のが、神経症的行動の特徴です。
親や学校の先生は、このことに無理解です。
煮え切らない生活態度と考えがちです。
この生徒の不登校も、煮え切らない生活態度と考えられていました。
よって親や学校の先生の無理解に、苦しみました。
さらにこの生徒は、口ごもってうまく話ができません。
それも無理解に、はくしゃをかけました。
煮え切らなさを、誰も理解してくれません。
それも、大きな苦しみです。
カウンセラーに対しても、同じです。
「何と言ったらいいのか、分からない」と繰り返します。
カウンセリングでは、これが大きな入口になります。
煮え切らなさの理解を、入り口とするのです。
先ず煮え切らなさに、いらだたないことです。
これが入り口となります。
いらだたなければ、そこに信頼が生まれます。
その信頼こそが、入り口になります。
この子にも、信頼に基づいた対応をしました。
それが大切です。
この子は、自分にせっする大人はいらだつと思っていました。
それを断ち切っていくことが、最初の一歩です。
正確には大きな信頼を、示します。
包み込みます。
次回に、さらに述べます。
新しいカウンセリング、「虐待された子供」のカウンセリングを述べます。
「虐待された子供」のカウンセリングには、困難が二点あります。
それは虐待された子供を、「いまの虐待からどう守るか」という困難。
虐待された子供は、「虐待の事実を話したがらない」という困難です。
この2点が「虐待された子供」のカウンセリングを妨げます。
どちらも、いまの現実です。
よって場合によっては一時保護が、必要になります。
そうしなけば、いま虐待された子供は潰れてしまいます。
このような現実的な対応が、求められます。
ある意味でカウンセリングの枠組みと権限を、越えていく必要があります。
先ず現実を、安定化させます。
おぼれている人を、今たすけます。
今おぼれている人をたすけることができてこそ、カウンセリングも進みます。
「虐待された子供」のカウンセリングは、クッションが必要です。
そのクッション効果は大きいのです。
クッション効果は、大きな意味があります。
クッションがあるだけで、大きく改善することも多いのです。
そのクッションは、虐待された子供の砦です。
砦が、その子を守ってくれます。
物理的なものだけではなく、こころの砦にもなります。
子供にとって、逃げ込むところが必要です。
自分の魂を守る、場所が必要です。
その魂を守る場所が、秘密の花園にもなります。
そこでこそ、自己確立は行われます。
「虐待された子供」のカウンセリングでは、逃げ込むところが必要です。
それは魂を守る場所だからです。
虐待された子供のこころも、逃げ込むところが必要です。
それは大人の敬意ある対応です。
虐待された子供を、尊重する姿勢が大切です。
それが、敬意ある対応です。
カウンセリングでは、無条件の尊重は重視されます。
虐待された子供も同様です。
そのときに、子供はこころを開きます。
そこからカウンセリングは、スタートします。
その無条件の尊重は、より具体化することが大切です。
そのために、子供の長所を発見します。
虐待された子供の長所を、見付けるのです。
見いだすのです。
その長所を伸ばします。
これが新しいカウンセリングの、原則です。
短所を指摘するのは、効率の悪いものです。
労力ばかり使い、前に進みません。
長所を見付け伸ばします。
それは虐待された子供に対する、次の視点によるものです。
先ず虐待された子供の、すべてがダメというわけではないということです。
当然、優れたところもあります。
少なくとも、健康なところはあります。
そこから取りくみます。
次に大切なことは虐待された子供自身が、生活をより良いものにしたいと考えているということです。
これは大切です。
この生活をより良いものにしたいというラインに沿って、考えていきます。
そのためには、小さな一歩が大切です。
現実を変えていくには、小さな一歩が大切です。
小さな一歩こそが、先ず踏み出すべき一歩です。
その小さな一歩を、見いだします。
次に、現実に踏み出します。
小さな一歩を見いだし、踏み出します。
これがカウンセリングのプロセスです。
そのために「もう少し自分が楽に生きるために、どうなればいいか」を尋ねます。
この少しは、今すぐにでもとどく範囲です。
より具体的には、次のように問います。
「もう少し自分が楽に生きるために、何か必要なことや必要な人は?」
子供によっては、「友達が欲しい」や「お母さんに優しくしてほしい」です。
これに近づくようにします。
このささやかな望みを、大切にします。
カウンセラーと、共に望みを持つのです。
そのカウンセラーと共に持った、望みを育みます。
実現していきます。
このように先ず虐待された子供に、関心を示します。
子供は、それをうれしく思うものです。
そこから信頼関係が生まれます。
先ずプラスの関心を示すことです。
ただし注意点もあります。
何でも短絡的に、虐待と考えないことです。
とくに虐待の被害者だからと短絡的に「かわいそうかわいそう」と考えることはミスです。
そう考えることは、子供には子供なりの立つ位置があり、それを奪ってもしまいます。
「かわいそうかわいそう」が、単なる同情になってはいけません。
同情は子供なりの立つ位置を、奪ってしまいます。
誰でも同情されたくありません。
その結果、子供なりの立つ位置を奪ってしまいます。
同情されることにより、子供なりの自尊心は奪われてしまうのです。
自尊心の尊重は大切です。
最も尊重されなければいけないのは、自尊心です。
このことを軸にして、子供は配慮されなければいけません。
それに虐待された子供の生活の大筋は、他の子供と変わりません。
ただ虐待と言う深刻さが、全てを覆っています。
その覆いを取ることが、目的です。
そのために覆いに直接触れることは、逆効果になりがちです。
覆いに直接触れると、それを拒否されるのが常です。
自分が触れたくないことには、他者からも触れられたくありません。
覆いを取るには、カウンセラーの暖かさが必要です。
暖かい雰意気こそが、大切です。
覆いは、暖かい雰意気により取れます。
解けて取り除かれます。
新しいカウンセリングでは、先ず子供自身を見ます。
次に虐待された子供として、見ます。
このように子供として見ることが初めであり、基礎です。
土台です。
その土台の上に、虐待された子供として見ます。
特別な子供として見ることは、次の事になります。
普通の子供として見ることは、子供に対する尊重です。
尊重こそが、優先されるべきです。
それをモデルにより述べます。
モデルは高校1年生の男子生徒です。
この生徒は、いわゆる不登校です。
正確には逃避的不登校です。
逃避的不登校とは朝、家を出ます。
だが登校しないで、ぶらっとどこかに行ってしまいます。
登校から、逃避してしまいます。
どこかで、ぶらぶらしています。
公園や駅で、ぶらぶらして過ごすのです。
本人もこれではいけないと、思っています。
しかし、分かっていてもやめられません。
この「分かっていてもやめられない」のが、神経症的行動の特徴です。
親や学校の先生は、このことに無理解です。
煮え切らない生活態度と考えがちです。
この生徒の不登校も、煮え切らない生活態度と考えられていました。
よって親や学校の先生の無理解に、苦しみました。
さらにこの生徒は、口ごもってうまく話ができません。
それも無理解に、はくしゃをかけました。
煮え切らなさを、誰も理解してくれません。
それも、大きな苦しみです。
カウンセラーに対しても、同じです。
「何と言ったらいいのか、分からない」と繰り返します。
カウンセリングでは、これが大きな入口になります。
煮え切らなさの理解を、入り口とするのです。
先ず煮え切らなさに、いらだたないことです。
これが入り口となります。
いらだたなければ、そこに信頼が生まれます。
その信頼こそが、入り口になります。
この子にも、信頼に基づいた対応をしました。
それが大切です。
この子は、自分にせっする大人はいらだつと思っていました。
それを断ち切っていくことが、最初の一歩です。
正確には大きな信頼を、示します。
包み込みます。
次回に、さらに述べます。