2016年09月15日
新しいカウンセリング 虐待された子供 198
お知らせ 熊本地震及び東日本大震災の被災者及びご家族、お知り合いに被災者のいらっしゃる方のためにボランティアによる無料の電話によるこころのカウンセリングを行っております。24時間受け付けております。ご利用ください。℡03-5888-7354です。
新しいカウンセリング、「虐待された子供」のカウンセリングを述べます。
「虐待された子供」のカウンセリングには、困難が二点あります。
それは虐待された子供を、「いまの虐待からどう守るか」という困難。
虐待された子供は、「虐待の事実を話したがらない」という困難です。
この2点が「虐待された子供」のカウンセリングを妨げます。
どちらも、いまの現実です。
よって場合によっては一時保護が、必要になります。
そうしなけば、いま虐待された子供は潰れてしまいます。
このような現実的な対応が、求められます。
ある意味でカウンセリングの枠組みと権限を、越えていく必要があります。
先ず現実を、安定化させます。
おぼれている人を、今たすけます。
今おぼれている人をたすけることができてこそ、カウンセリングも進みます。
「虐待された子供」のカウンセリングは、クッションが必要です。
そのクッション効果は大きいのです。
クッション効果は、大きな意味があります。
クッションがあるだけで、大きく改善することも多いのです。
そのクッションは、虐待された子供の砦です。
砦が、その子を守ってくれます。
物理的なものだけではなく、こころの砦にもなります。
子供にとって、逃げ込むところが必要です。
自分の魂を守る、場所が必要です。
その魂を守る場所が、秘密の花園にもなります。
そこでこそ、自己確立は行われます。
「虐待された子供」のカウンセリングでは、逃げ込むところが必要です。
それは魂を守る場所だからです。
虐待された子供のこころも、逃げ込むところが必要です。
それは大人の敬意ある対応です。
虐待された子供を、尊重する姿勢が大切です。
それが、敬意ある対応です。
カウンセリングでは、無条件の尊重は重視されます。
虐待された子供も同様です。
そのときに、子供はこころを開きます。
そこからカウンセリングは、スタートします。
その無条件の尊重は、より具体化することが大切です。
そのために、子供の長所を発見します。
虐待された子供の長所を、見付けるのです。
見いだすのです。
その長所を伸ばします。
これが新しいカウンセリングの、原則です。
短所を指摘するのは、効率の悪いものです。
労力ばかり使い、前に進みません。
長所を見付け伸ばします。
それは虐待された子供に対する、次の視点によるものです。
先ず虐待された子供の、すべてがダメというわけではないということです。
当然、優れたところもあります。
少なくとも、健康なところはあります。
そこから取りくみます。
次に大切なことは虐待された子供自身が、生活をより良いものにしたいと考えているということです。
これは大切です。
この生活をより良いものにしたいというラインに沿って、考えていきます。
そのためには、小さな一歩が大切です。
現実を変えていくには、小さな一歩が大切です。
小さな一歩こそが、先ず踏み出すべき一歩です。
その小さな一歩を、見いだします。
次に、現実に踏み出します。
小さな一歩を見いだし、踏み出します。
これがカウンセリングのプロセスです。
そのために「もう少し自分が楽に生きるために、どうなればいいか」を尋ねます。
この少しは、今すぐにでもとどく範囲です。
より具体的には、次のように問います。
「もう少し自分が楽に生きるために、何か必要なことや必要な人は?」
子供によっては、「友達が欲しい」や「お母さんに優しくしてほしい」です。
これに近づくようにします。
このささやかな望みを、大切にします。
カウンセラーと、共に望みを持つのです。
そのカウンセラーと共に持った、望みを育みます。
実現していきます。
このように先ず虐待された子供に、関心を示します。
子供は、それをうれしく思うものです。
そこから信頼関係が生まれます。
先ずプラスの関心を示すことです。
ただし注意点もあります。
何でも短絡的に、虐待と考えないことです。
とくに虐待の被害者だからと短絡的に「かわいそうかわいそう」と考えることはミスです。
そう考えることは、子供には子供なりの立つ位置があり、それを奪ってもしまいます。
「かわいそうかわいそう」が、単なる同情になってはいけません。
同情は子供なりの立つ位置を、奪ってしまいます。
誰でも同情されたくありません。
その結果、子供なりの立つ位置を奪ってしまいます。
同情されることにより、子供なりの自尊心は奪われてしまうのです。
自尊心の尊重は大切です。
最も尊重されなければいけないのは、自尊心です。
このことを軸にして、子供は配慮されなければいけません。
それに虐待された子供の生活の大筋は、他の子供と変わりません。
ただ虐待と言う深刻さが、全てを覆っています。
その覆いを取ることが、目的です。
そのために覆いに直接触れることは、逆効果になりがちです。
覆いに直接触れると、それを拒否されるのが常です。
自分が触れたくないことには、他者からも触れられたくありません。
覆いを取るには、カウンセラーの暖かさが必要です。
暖かい雰意気こそが、大切です。
覆いは、暖かい雰意気により取れます。
解けて取り除かれます。
新しいカウンセリングでは、先ず子供自身を見ます。
次に虐待された子供として、見ます。
このように子供として見ることが初めであり、基礎です。
土台です。
その土台の上に、虐待された子供として見ます。
特別な子供として見ることは、次の事になります。
普通の子供として見ることは、子供に対する尊重です。
尊重こそが、優先されるべきです。
それをモデルにより述べます。
モデルは高校1年生の男子生徒です。
この生徒は、いわゆる不登校です。
正確には逃避的不登校です。
逃避的不登校とは朝、家を出ます。
だが登校しないで、ぶらっとどこかに行ってしまいます。
登校から、逃避してしまいます。
どこかで、ぶらぶらしています。
公園や駅で、ぶらぶらして過ごすのです。
本人もこれではいけないと、思っています。
しかし、分かっていてもやめられません。
この「分かっていてもやめられない」のが、神経症的行動の特徴です。
親や学校の先生は、このことに無理解です。
煮え切らない生活態度と考えがちです。
この生徒の不登校も、煮え切らない生活態度と考えられていました。
よって親や学校の先生の無理解に、苦しみました。
さらにこの生徒は、口ごもってうまく話ができません。
それも無理解に、はくしゃをかけました。
煮え切らなさを、誰も理解してくれません。
それも、大きな苦しみです。
カウンセラーに対しても、同じです。
「何と言ったらいいのか、分からない」と繰り返します。
カウンセリングでは、これが大きな入口になります。
煮え切らなさの理解を、入り口とするのです。
先ず煮え切らなさに、いらだたないことです。
これが入り口となります。
いらだたなければ、そこに信頼が生まれます。
その信頼こそが、入り口になります。
この子にも、信頼に基づいた対応をしました。
それが大切です。
この子は、自分にせっする大人はいらだつと思っていました。
それを断ち切っていくことが、最初の一歩です。
正確には大きな信頼を、示します。
包み込みます。
大きな信頼を示し、子供を包み込みます。
このように信頼を築きます。
ただし現実の問題解決も、当然のことながら大切です。
信頼を築くことと、現実の問題解決は並行して進めます。
そこで「学校の欠席」についてやわらかく語りました。
このやわらかさがポイントです。
当然、本人は触れたくない事です。
また触れられたくない事でもあるのです。
それを踏まえて、話し始めます。
おだやかに、話します。
「学校の欠席」について、皆が心配していることを伝えました。
やわらかく伝えました。
やわらかく伝えれば、反発は起きません。
おだやかに話は進みます。
それにそのおだやかな関係性こそが、前向きな姿勢も生みます。
おだやかさは、解放された気持ちも生みます。
おだやかな解放感の中で語られる言葉。
それこそが、自分を解き放ちます。
それが「学校の欠席について、皆が心配している」という言葉です。
やわらかく伝え、暖かく伝わりました。
けっして説教をしてはいけません。
説教は、逆効果です。
説教よりも、学校に「行けなさ」を知ることが大切です。
「学校に行こう!」と言っても、そうなれない理由を知ることです。
単純に「学校に行こう!」と言って、行けるぐらいの問題ではありません。
そこには、深い問題が潜んでいます。
「学校の欠席について、皆が心配している」という言葉は、それだけでも効果的です。
その暖かさは、全てを包み込みます。
それでも、話しにくそうでした。
そこで質問の方向を変えました.
その質問は、「自分ではそうしたくないのに、そうなってしまう理由があるのかな?」
このような質問です。
これは多くの心の問題に、共通します。
心の問題は、自分でわかっていてもやめられません。
わかっていてもやめられないから、自分で苦しみます。
この理解は大切です。
わかっていてもやめられないことに、苦しんでいます。
それは理解されにくいのです。
だから、わかってくれる人が必要です。
大切です。
この場合、カウンセラーがその人になります。
大切な人になります。
目の前に大切な人がいます。
今までいなかった、大切な人がいます。
そう実感できたとき、世界も変わります。
それは同時におきます。
心の内側と、外側は表裏一体です。
内側で実感できれば、外側でも実感できます。
内側と外側から暖められます。
そのとき、心は解かされます。
そのとき、泣きくずれる子も多いのです。
この子も、そうでした。
泣きくずれる子の前で、そのままじっと見守ることもあります。
感情を開放し、解放するためです。
多くの場合、感情の開放は大きな意味を持ちます。
自分自身の解放につながります。
泣きくずれる子は、そうやって自分を解放します。
解き放つのです。
自分で自分を浄化し、解放します。
自分自身を解き放つのです。
ただし浄化と解放には、次のプロセスがともないます。
そうでなければ、メロドラマに終わります。
ただし次に移るときも、配慮を失ってはいけません。
配慮ある対応は、いつも求められます。
そのために、次の言葉が大切です。
「これから、どうすれば良くなれるかを二人で話しましょう」
さらに次の言葉を、続けます。
「そのために、いま学校にいけないのはなぜ?」と、問います。
この子は、口ごもりました。
高校一年生の男子生徒に、言い出しにくいのでしょう。
そこに気まずい空気が流れました。
その気まずさにいらだたないで、カウンセラーは待ちます。
待つことが、ポイントです。
ある意味で、他者の考えを変えることは絶対にできません。
考えを変えることのできるのは、自分だけです。
自分しか、自分の考えを変えることはできません。
カウンセリングは、そのための準備をするのです。
自分の考えを変えるための、下地をつくるのです。
花が咲くには、暖かさが必要です。
人の心の花が咲くにも、暖かさが必要です。
そのときに、話は生まれます。
本人はぼそっと、話し始めます。
「父が・・・・・・・」
と、小さな声で言いました。
カウンセリングでは、小さな声はただ聴くことが強調されます。
ひたすら聴きます。
それは正確には、声を聴くのではありません。
相手を理解するのです。
自分が理解されるとき、すべては変わります。
真の理解は、相手を受け入れることです。
正確には、真の理解は相手という人を受け入れることです。
相手のすべてを受け入れることです。
そうすると、小さな声はほんの少し大きくなります。
「父が暴力」と小声で語りました。
この小声を、ただひたすら聴くことです。
声の小ささに腹を立てることなく、ただひたすら聴くことです。
大切なのは、ただひたすら聴く姿勢です。
その姿勢だけでも、大きな変化を相手に起こします。
今までは、嫌がられていました。無視されていました。
今は逆に、ひたすら聴いてくれます。
迷惑でもなく、無関心でもない視線を向けられています。
むしろ逆の、肯定的な視線を向けられています。
そこで「父が暴力」という言葉も出てきました。
肯定的な姿勢なしでは、出てこない言葉です。
ただしこの言葉は、不十分です。
「父が暴力」だけでは、意味がわかりません。
それにいらだたないことです。
いらだたなければ、それだけで大きな意味があります。
ここでカウンセリングは打ち切られてもいいのです。
その課題は、次に進む道標になります。
この日のカウンセリングを、ここで打ち切ることも意味があります。
本人に考える、時間を与えるのです。
間を取ることは大切です。
多くの場合、虐待された子供はせかされて育てられました。
間を取ることにより、せかされて育てられたことは正されます。
このようにカウンセラーとの関係性も、カウンセリングで大きな意味を持ちます。
カウンセリングは虐待された子供の、虐待という事実の修正です。
それを正すために、カウンセラーとの関係性も用います。
カウンセラーとの関係の中で、正しい人間関係を築くのです。
その時、今までの人間関係は正されます。
親子関係の修正を、カウンセラーとの関係の中で行います。
それがカウンセリングの場です。
その場を通して、親子関係の修正をします。
それは説得や、支持とは異なります。
身を持って、体験します。
正しい関係を身を持って、体験するのです。
このように新しいカウンセリングは、いろいろな方向から行われます。
言葉だけでもなければ、行動だけでもありません。
新しいカウンセリングは、総合的に行われます。
それゆえに、新しいのです。
一つのカウンセリングのみで、対応することはありません。
多くのカウンセリングを組み合わせます。
「父が暴力」だけでは意味がわかりませんが、そこからがカウンセラーの力量です。
力の見せ所です。
欧米では、沈黙するカウンセラーも多いのです。
日本で沈黙すると、誤解を生みがちです。
日本で沈黙は、無関心と受け止められがちです。
無関心と受け止められない、沈黙が必要です。
もしくは、肯定的に受け止めるのです。
年少者の場合、この方が効果的です。
肯定的に受け止めることにより、子供の心は開かれます。
カウンセラーが前向きであることにより、子供の心はより開かれます。
新しいカウンセリングのかもし出すものは、子供に伝わります。
それは前向きさです。
かもし出された前向きさは、すべてを変えるエネルギーです。
ただそれだけでは、不十分です。
ガソリンだけでは、自動車は走りません。
運転のためには、ほかの要素も必要です。
多くの場合、妨害物をどけることです。
子供が前に進むことを、妨げるものがあるはずです。
それを見つける事です。
ただ一筋縄ではいかないことが多いのです。
この場合、お母さんを切り口に質問を進めました。
「父が暴力?、うん、お母さんはそのときどうしているの?」
話を遠回りに、話しやすくします。
話の周りを、回るのです。
ぐるぐる木の周りを、回るのと同じです。
話の周りを、ぐるぐると回ります。
ぐるぐる木の周りを回ると、木の姿も見えてきます。
同じように話の周りをぐるぐると回ると、話し全体の姿も見えてきます。
そうやって、遠回りに解決に向かいます。
この場合は、本人の言いにくいことに向かったのです。
カウンセリングでは、直接の解決に向かうことはミスにつながりがちです。
最も大切なことは、相談する人の最も言いたくないことでもあるからです。
誰しも肝心かなめの事は、言いたくありません。
それにひかえめに触れる事が、大切です。
ひかえめに触れながら、改善に向かいます。
改善が目的であって、解明は目的ではありません。
お母さんを切り口にした質問に、こう答えました。
「お母さんはそのとき、見ているだけで・・・・・」
母親は、父親の暴力に無力なのです。
何もしない、できないのです。
それはとても悲しい体験です。
それゆえに、話がつまったのでしょう。
その悲しい体験はていねいに扱われるべきです。
乱暴に扱ってはいけません。
ていねいに扱うためには、相手にそった対応が大切です。
相手にそって対応するのです。
この場合、そのことをへんに追及しないことにしました。
それよりも、悲しみを理解することにしました。
カウンセラーは、そのためにこう述べました。
「とても悲しいことですね」
こうやって、悲しみに理解を示しました。
これが第一歩です。
誰でも理解を示されれば、前向きになります。
それだけでも、成功です。
あとは話を進めるか、ハンドルを切るかです。
それは、カウンセラーの判断です。
この場合、話そのものよりも気持ちの方向にハンドルを切りました。
それは、気づかいの方向です。
だからカウンセラーは「とても悲しいことですね」と語ったのです。
ここでストップすることなく、カウンセリングは深められます。
ただしハンドルを切ります。
切りながらカウンセリングを深ます。
このときカウンセラーは、こうハンドルを切りました。
「寄り道をしているときに、何かなければいいけれど・・・」。
寄り道中の事故を気遣いました。
それを素直に受けとめてくれれば、okです。
この高校生が、素直に受けとめてくれることがポイントです。
素直さがゆがめられれば、本質は崩れています。
素直さこそが本質です。
本質をゆがめない姿勢を、カウンセラーは保ち続けなければいけません。
それにこたえるかのように、こう語りました。
「ありがとう・・・」
続けて、こう語りました。
「自分でも気を付けているけど」
「図書館に行ったりします」
と続けました。
カウンセラーは、安心しました。
心の底から、安心しました。
その安心は、つながりを深めます。
さらに深めます。
さらに次に進みます。
「父がいないときは、家に帰ります」「うちは本屋なんです」
個人商店です。
だから、いつもお父さんはいます。
カウンセラーは、心配になりました。
「いつ家に帰るの?」こう尋ねました。
それに対して、こう答えます。
「お父さんが家にいないとき」
カウンセラーは首をかしげ「?」
「お母さんとメールしている」
言葉では分かりにくいですが、首をかしげるという行為に対する返事です。
身体を用いた、会話が起きました。
コミュニケーションは、言葉だけではありません。
身体による、コミュニケーションもあります。
この場合は、身体のしぐさを用いた会話です。
ジェスチャーによる会話です。
身体による、コミュニケーションは深いのです。
心のシンに、近いのです。
それゆえに言葉によるコミュニケーションより、嘘がつけません。
より直接的なコミュニケーションと言えます。
必要に応じては、握手をすることもあります。
だが日本では、身体によるコミュニケーションは誤解をうむこともあります。
特に男女間では、身体によるコミュニケーションは誤解をうみがちです。
よって避けるべきです。
しぐさを用いた、ジェスチャーによる会話で良いでしょう。
この高校生も、首をかしげるというしぐさを用いました。
このコミュニケーションは距離を、ぐっと縮めました。
笑顔が戻りました。
ホットできた瞬間です。
暖かさが生まれました。
安心できました。
このように暖かさを生み、育むことにもカウンセリングの意味はあります。
その暖かさの中で、育まれていきます。
正確には、自分で育んでいくのです。
カウンセリングは虐待された子供の、手助けです。
それが基本的な姿勢です。
この高校生は、そのためにプラスされなければいけない事がありました。
それは母親からの、サポートです。
ここから社会的なサポートが、母親のために必要になります。
母親は、父親の暴力におろおろする人でした。
逆に言えば、そのおろおろを解決する方向に進めば全て前進します。
母親は、いま父親になすすべがないのです。
少なくとも誰かが、力になる事です。
昭和初期の長屋であれば、大家さんが力になりました。
子どもの世界には、ボスはいました。
このボスは、今のいじめっ子とは大きく異なります。
そのボスはいじめっ子が誰かにいじめられると、その人からいじめっ子を守りました。
そこが大きく異なります。
逆に言えば、今のいじめっ子には正義がありません。
そこが大きく異なります。
よってカウンセラーはある意味、むかしのボスいじめっ子になる必要があります。
いじめっ子らしい正義も必要です。
いや、正義だけが必要です。
カウンセラーがいじめては、いけません。
次回に、さらに述べます。
新しいカウンセリング、「虐待された子供」のカウンセリングを述べます。
「虐待された子供」のカウンセリングには、困難が二点あります。
それは虐待された子供を、「いまの虐待からどう守るか」という困難。
虐待された子供は、「虐待の事実を話したがらない」という困難です。
この2点が「虐待された子供」のカウンセリングを妨げます。
どちらも、いまの現実です。
よって場合によっては一時保護が、必要になります。
そうしなけば、いま虐待された子供は潰れてしまいます。
このような現実的な対応が、求められます。
ある意味でカウンセリングの枠組みと権限を、越えていく必要があります。
先ず現実を、安定化させます。
おぼれている人を、今たすけます。
今おぼれている人をたすけることができてこそ、カウンセリングも進みます。
「虐待された子供」のカウンセリングは、クッションが必要です。
そのクッション効果は大きいのです。
クッション効果は、大きな意味があります。
クッションがあるだけで、大きく改善することも多いのです。
そのクッションは、虐待された子供の砦です。
砦が、その子を守ってくれます。
物理的なものだけではなく、こころの砦にもなります。
子供にとって、逃げ込むところが必要です。
自分の魂を守る、場所が必要です。
その魂を守る場所が、秘密の花園にもなります。
そこでこそ、自己確立は行われます。
「虐待された子供」のカウンセリングでは、逃げ込むところが必要です。
それは魂を守る場所だからです。
虐待された子供のこころも、逃げ込むところが必要です。
それは大人の敬意ある対応です。
虐待された子供を、尊重する姿勢が大切です。
それが、敬意ある対応です。
カウンセリングでは、無条件の尊重は重視されます。
虐待された子供も同様です。
そのときに、子供はこころを開きます。
そこからカウンセリングは、スタートします。
その無条件の尊重は、より具体化することが大切です。
そのために、子供の長所を発見します。
虐待された子供の長所を、見付けるのです。
見いだすのです。
その長所を伸ばします。
これが新しいカウンセリングの、原則です。
短所を指摘するのは、効率の悪いものです。
労力ばかり使い、前に進みません。
長所を見付け伸ばします。
それは虐待された子供に対する、次の視点によるものです。
先ず虐待された子供の、すべてがダメというわけではないということです。
当然、優れたところもあります。
少なくとも、健康なところはあります。
そこから取りくみます。
次に大切なことは虐待された子供自身が、生活をより良いものにしたいと考えているということです。
これは大切です。
この生活をより良いものにしたいというラインに沿って、考えていきます。
そのためには、小さな一歩が大切です。
現実を変えていくには、小さな一歩が大切です。
小さな一歩こそが、先ず踏み出すべき一歩です。
その小さな一歩を、見いだします。
次に、現実に踏み出します。
小さな一歩を見いだし、踏み出します。
これがカウンセリングのプロセスです。
そのために「もう少し自分が楽に生きるために、どうなればいいか」を尋ねます。
この少しは、今すぐにでもとどく範囲です。
より具体的には、次のように問います。
「もう少し自分が楽に生きるために、何か必要なことや必要な人は?」
子供によっては、「友達が欲しい」や「お母さんに優しくしてほしい」です。
これに近づくようにします。
このささやかな望みを、大切にします。
カウンセラーと、共に望みを持つのです。
そのカウンセラーと共に持った、望みを育みます。
実現していきます。
このように先ず虐待された子供に、関心を示します。
子供は、それをうれしく思うものです。
そこから信頼関係が生まれます。
先ずプラスの関心を示すことです。
ただし注意点もあります。
何でも短絡的に、虐待と考えないことです。
とくに虐待の被害者だからと短絡的に「かわいそうかわいそう」と考えることはミスです。
そう考えることは、子供には子供なりの立つ位置があり、それを奪ってもしまいます。
「かわいそうかわいそう」が、単なる同情になってはいけません。
同情は子供なりの立つ位置を、奪ってしまいます。
誰でも同情されたくありません。
その結果、子供なりの立つ位置を奪ってしまいます。
同情されることにより、子供なりの自尊心は奪われてしまうのです。
自尊心の尊重は大切です。
最も尊重されなければいけないのは、自尊心です。
このことを軸にして、子供は配慮されなければいけません。
それに虐待された子供の生活の大筋は、他の子供と変わりません。
ただ虐待と言う深刻さが、全てを覆っています。
その覆いを取ることが、目的です。
そのために覆いに直接触れることは、逆効果になりがちです。
覆いに直接触れると、それを拒否されるのが常です。
自分が触れたくないことには、他者からも触れられたくありません。
覆いを取るには、カウンセラーの暖かさが必要です。
暖かい雰意気こそが、大切です。
覆いは、暖かい雰意気により取れます。
解けて取り除かれます。
新しいカウンセリングでは、先ず子供自身を見ます。
次に虐待された子供として、見ます。
このように子供として見ることが初めであり、基礎です。
土台です。
その土台の上に、虐待された子供として見ます。
特別な子供として見ることは、次の事になります。
普通の子供として見ることは、子供に対する尊重です。
尊重こそが、優先されるべきです。
それをモデルにより述べます。
モデルは高校1年生の男子生徒です。
この生徒は、いわゆる不登校です。
正確には逃避的不登校です。
逃避的不登校とは朝、家を出ます。
だが登校しないで、ぶらっとどこかに行ってしまいます。
登校から、逃避してしまいます。
どこかで、ぶらぶらしています。
公園や駅で、ぶらぶらして過ごすのです。
本人もこれではいけないと、思っています。
しかし、分かっていてもやめられません。
この「分かっていてもやめられない」のが、神経症的行動の特徴です。
親や学校の先生は、このことに無理解です。
煮え切らない生活態度と考えがちです。
この生徒の不登校も、煮え切らない生活態度と考えられていました。
よって親や学校の先生の無理解に、苦しみました。
さらにこの生徒は、口ごもってうまく話ができません。
それも無理解に、はくしゃをかけました。
煮え切らなさを、誰も理解してくれません。
それも、大きな苦しみです。
カウンセラーに対しても、同じです。
「何と言ったらいいのか、分からない」と繰り返します。
カウンセリングでは、これが大きな入口になります。
煮え切らなさの理解を、入り口とするのです。
先ず煮え切らなさに、いらだたないことです。
これが入り口となります。
いらだたなければ、そこに信頼が生まれます。
その信頼こそが、入り口になります。
この子にも、信頼に基づいた対応をしました。
それが大切です。
この子は、自分にせっする大人はいらだつと思っていました。
それを断ち切っていくことが、最初の一歩です。
正確には大きな信頼を、示します。
包み込みます。
大きな信頼を示し、子供を包み込みます。
このように信頼を築きます。
ただし現実の問題解決も、当然のことながら大切です。
信頼を築くことと、現実の問題解決は並行して進めます。
そこで「学校の欠席」についてやわらかく語りました。
このやわらかさがポイントです。
当然、本人は触れたくない事です。
また触れられたくない事でもあるのです。
それを踏まえて、話し始めます。
おだやかに、話します。
「学校の欠席」について、皆が心配していることを伝えました。
やわらかく伝えました。
やわらかく伝えれば、反発は起きません。
おだやかに話は進みます。
それにそのおだやかな関係性こそが、前向きな姿勢も生みます。
おだやかさは、解放された気持ちも生みます。
おだやかな解放感の中で語られる言葉。
それこそが、自分を解き放ちます。
それが「学校の欠席について、皆が心配している」という言葉です。
やわらかく伝え、暖かく伝わりました。
けっして説教をしてはいけません。
説教は、逆効果です。
説教よりも、学校に「行けなさ」を知ることが大切です。
「学校に行こう!」と言っても、そうなれない理由を知ることです。
単純に「学校に行こう!」と言って、行けるぐらいの問題ではありません。
そこには、深い問題が潜んでいます。
「学校の欠席について、皆が心配している」という言葉は、それだけでも効果的です。
その暖かさは、全てを包み込みます。
それでも、話しにくそうでした。
そこで質問の方向を変えました.
その質問は、「自分ではそうしたくないのに、そうなってしまう理由があるのかな?」
このような質問です。
これは多くの心の問題に、共通します。
心の問題は、自分でわかっていてもやめられません。
わかっていてもやめられないから、自分で苦しみます。
この理解は大切です。
わかっていてもやめられないことに、苦しんでいます。
それは理解されにくいのです。
だから、わかってくれる人が必要です。
大切です。
この場合、カウンセラーがその人になります。
大切な人になります。
目の前に大切な人がいます。
今までいなかった、大切な人がいます。
そう実感できたとき、世界も変わります。
それは同時におきます。
心の内側と、外側は表裏一体です。
内側で実感できれば、外側でも実感できます。
内側と外側から暖められます。
そのとき、心は解かされます。
そのとき、泣きくずれる子も多いのです。
この子も、そうでした。
泣きくずれる子の前で、そのままじっと見守ることもあります。
感情を開放し、解放するためです。
多くの場合、感情の開放は大きな意味を持ちます。
自分自身の解放につながります。
泣きくずれる子は、そうやって自分を解放します。
解き放つのです。
自分で自分を浄化し、解放します。
自分自身を解き放つのです。
ただし浄化と解放には、次のプロセスがともないます。
そうでなければ、メロドラマに終わります。
ただし次に移るときも、配慮を失ってはいけません。
配慮ある対応は、いつも求められます。
そのために、次の言葉が大切です。
「これから、どうすれば良くなれるかを二人で話しましょう」
さらに次の言葉を、続けます。
「そのために、いま学校にいけないのはなぜ?」と、問います。
この子は、口ごもりました。
高校一年生の男子生徒に、言い出しにくいのでしょう。
そこに気まずい空気が流れました。
その気まずさにいらだたないで、カウンセラーは待ちます。
待つことが、ポイントです。
ある意味で、他者の考えを変えることは絶対にできません。
考えを変えることのできるのは、自分だけです。
自分しか、自分の考えを変えることはできません。
カウンセリングは、そのための準備をするのです。
自分の考えを変えるための、下地をつくるのです。
花が咲くには、暖かさが必要です。
人の心の花が咲くにも、暖かさが必要です。
そのときに、話は生まれます。
本人はぼそっと、話し始めます。
「父が・・・・・・・」
と、小さな声で言いました。
カウンセリングでは、小さな声はただ聴くことが強調されます。
ひたすら聴きます。
それは正確には、声を聴くのではありません。
相手を理解するのです。
自分が理解されるとき、すべては変わります。
真の理解は、相手を受け入れることです。
正確には、真の理解は相手という人を受け入れることです。
相手のすべてを受け入れることです。
そうすると、小さな声はほんの少し大きくなります。
「父が暴力」と小声で語りました。
この小声を、ただひたすら聴くことです。
声の小ささに腹を立てることなく、ただひたすら聴くことです。
大切なのは、ただひたすら聴く姿勢です。
その姿勢だけでも、大きな変化を相手に起こします。
今までは、嫌がられていました。無視されていました。
今は逆に、ひたすら聴いてくれます。
迷惑でもなく、無関心でもない視線を向けられています。
むしろ逆の、肯定的な視線を向けられています。
そこで「父が暴力」という言葉も出てきました。
肯定的な姿勢なしでは、出てこない言葉です。
ただしこの言葉は、不十分です。
「父が暴力」だけでは、意味がわかりません。
それにいらだたないことです。
いらだたなければ、それだけで大きな意味があります。
ここでカウンセリングは打ち切られてもいいのです。
その課題は、次に進む道標になります。
この日のカウンセリングを、ここで打ち切ることも意味があります。
本人に考える、時間を与えるのです。
間を取ることは大切です。
多くの場合、虐待された子供はせかされて育てられました。
間を取ることにより、せかされて育てられたことは正されます。
このようにカウンセラーとの関係性も、カウンセリングで大きな意味を持ちます。
カウンセリングは虐待された子供の、虐待という事実の修正です。
それを正すために、カウンセラーとの関係性も用います。
カウンセラーとの関係の中で、正しい人間関係を築くのです。
その時、今までの人間関係は正されます。
親子関係の修正を、カウンセラーとの関係の中で行います。
それがカウンセリングの場です。
その場を通して、親子関係の修正をします。
それは説得や、支持とは異なります。
身を持って、体験します。
正しい関係を身を持って、体験するのです。
このように新しいカウンセリングは、いろいろな方向から行われます。
言葉だけでもなければ、行動だけでもありません。
新しいカウンセリングは、総合的に行われます。
それゆえに、新しいのです。
一つのカウンセリングのみで、対応することはありません。
多くのカウンセリングを組み合わせます。
「父が暴力」だけでは意味がわかりませんが、そこからがカウンセラーの力量です。
力の見せ所です。
欧米では、沈黙するカウンセラーも多いのです。
日本で沈黙すると、誤解を生みがちです。
日本で沈黙は、無関心と受け止められがちです。
無関心と受け止められない、沈黙が必要です。
もしくは、肯定的に受け止めるのです。
年少者の場合、この方が効果的です。
肯定的に受け止めることにより、子供の心は開かれます。
カウンセラーが前向きであることにより、子供の心はより開かれます。
新しいカウンセリングのかもし出すものは、子供に伝わります。
それは前向きさです。
かもし出された前向きさは、すべてを変えるエネルギーです。
ただそれだけでは、不十分です。
ガソリンだけでは、自動車は走りません。
運転のためには、ほかの要素も必要です。
多くの場合、妨害物をどけることです。
子供が前に進むことを、妨げるものがあるはずです。
それを見つける事です。
ただ一筋縄ではいかないことが多いのです。
この場合、お母さんを切り口に質問を進めました。
「父が暴力?、うん、お母さんはそのときどうしているの?」
話を遠回りに、話しやすくします。
話の周りを、回るのです。
ぐるぐる木の周りを、回るのと同じです。
話の周りを、ぐるぐると回ります。
ぐるぐる木の周りを回ると、木の姿も見えてきます。
同じように話の周りをぐるぐると回ると、話し全体の姿も見えてきます。
そうやって、遠回りに解決に向かいます。
この場合は、本人の言いにくいことに向かったのです。
カウンセリングでは、直接の解決に向かうことはミスにつながりがちです。
最も大切なことは、相談する人の最も言いたくないことでもあるからです。
誰しも肝心かなめの事は、言いたくありません。
それにひかえめに触れる事が、大切です。
ひかえめに触れながら、改善に向かいます。
改善が目的であって、解明は目的ではありません。
お母さんを切り口にした質問に、こう答えました。
「お母さんはそのとき、見ているだけで・・・・・」
母親は、父親の暴力に無力なのです。
何もしない、できないのです。
それはとても悲しい体験です。
それゆえに、話がつまったのでしょう。
その悲しい体験はていねいに扱われるべきです。
乱暴に扱ってはいけません。
ていねいに扱うためには、相手にそった対応が大切です。
相手にそって対応するのです。
この場合、そのことをへんに追及しないことにしました。
それよりも、悲しみを理解することにしました。
カウンセラーは、そのためにこう述べました。
「とても悲しいことですね」
こうやって、悲しみに理解を示しました。
これが第一歩です。
誰でも理解を示されれば、前向きになります。
それだけでも、成功です。
あとは話を進めるか、ハンドルを切るかです。
それは、カウンセラーの判断です。
この場合、話そのものよりも気持ちの方向にハンドルを切りました。
それは、気づかいの方向です。
だからカウンセラーは「とても悲しいことですね」と語ったのです。
ここでストップすることなく、カウンセリングは深められます。
ただしハンドルを切ります。
切りながらカウンセリングを深ます。
このときカウンセラーは、こうハンドルを切りました。
「寄り道をしているときに、何かなければいいけれど・・・」。
寄り道中の事故を気遣いました。
それを素直に受けとめてくれれば、okです。
この高校生が、素直に受けとめてくれることがポイントです。
素直さがゆがめられれば、本質は崩れています。
素直さこそが本質です。
本質をゆがめない姿勢を、カウンセラーは保ち続けなければいけません。
それにこたえるかのように、こう語りました。
「ありがとう・・・」
続けて、こう語りました。
「自分でも気を付けているけど」
「図書館に行ったりします」
と続けました。
カウンセラーは、安心しました。
心の底から、安心しました。
その安心は、つながりを深めます。
さらに深めます。
さらに次に進みます。
「父がいないときは、家に帰ります」「うちは本屋なんです」
個人商店です。
だから、いつもお父さんはいます。
カウンセラーは、心配になりました。
「いつ家に帰るの?」こう尋ねました。
それに対して、こう答えます。
「お父さんが家にいないとき」
カウンセラーは首をかしげ「?」
「お母さんとメールしている」
言葉では分かりにくいですが、首をかしげるという行為に対する返事です。
身体を用いた、会話が起きました。
コミュニケーションは、言葉だけではありません。
身体による、コミュニケーションもあります。
この場合は、身体のしぐさを用いた会話です。
ジェスチャーによる会話です。
身体による、コミュニケーションは深いのです。
心のシンに、近いのです。
それゆえに言葉によるコミュニケーションより、嘘がつけません。
より直接的なコミュニケーションと言えます。
必要に応じては、握手をすることもあります。
だが日本では、身体によるコミュニケーションは誤解をうむこともあります。
特に男女間では、身体によるコミュニケーションは誤解をうみがちです。
よって避けるべきです。
しぐさを用いた、ジェスチャーによる会話で良いでしょう。
この高校生も、首をかしげるというしぐさを用いました。
このコミュニケーションは距離を、ぐっと縮めました。
笑顔が戻りました。
ホットできた瞬間です。
暖かさが生まれました。
安心できました。
このように暖かさを生み、育むことにもカウンセリングの意味はあります。
その暖かさの中で、育まれていきます。
正確には、自分で育んでいくのです。
カウンセリングは虐待された子供の、手助けです。
それが基本的な姿勢です。
この高校生は、そのためにプラスされなければいけない事がありました。
それは母親からの、サポートです。
ここから社会的なサポートが、母親のために必要になります。
母親は、父親の暴力におろおろする人でした。
逆に言えば、そのおろおろを解決する方向に進めば全て前進します。
母親は、いま父親になすすべがないのです。
少なくとも誰かが、力になる事です。
昭和初期の長屋であれば、大家さんが力になりました。
子どもの世界には、ボスはいました。
このボスは、今のいじめっ子とは大きく異なります。
そのボスはいじめっ子が誰かにいじめられると、その人からいじめっ子を守りました。
そこが大きく異なります。
逆に言えば、今のいじめっ子には正義がありません。
そこが大きく異なります。
よってカウンセラーはある意味、むかしのボスいじめっ子になる必要があります。
いじめっ子らしい正義も必要です。
いや、正義だけが必要です。
カウンセラーがいじめては、いけません。
次回に、さらに述べます。
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